『 人権と部落問題 』

 巻 頭 言 集

現在二〇〇九年七月号~二〇一九年十二月号まで掲載


『人権と部落問題』 巻頭言集

2019年12月号(No.930)

  表現への権力的介入を許すな
 
 「 愛知トリエンナーレ二〇一九」の企画の一つとして「 表現の不自由展・その後」で展示された「 少女像」などの展示が中止されたが、各方面から多くの批判が寄せられ、二カ月後に再開された。何が問題なのかをあらためて考えておきたい。
 この展示会のホームページでは、二〇一五年に開催された「 表現の不自由展」は「 日本における『 言論と表現の自由』が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品」が「 当時いかにして『 排除』されたのか、実際に展示不許可となった理由とともに展示した」が、今回は、その作品の「 その後」に加え、二〇一五年以降新たに展示不許可になった作品を不許可の理由とともに展示することをコンセプトにするとしていた。
 そうであるにもかかわらず、結局は「 組織的検閲や忖度」によって不許可となった作品を不許可にするという、「 不自由」を実感する事態に陥ったものということになる。
 さて、今回の「 少女像」などの展示については、脅迫があり、観客の安全を守れないということが中止の直接の原因ということになっているが、本当の理由はそこではないであろう。「 少女像」を好ましいものと受け取らない人がいることは確かであろうが、問題は、市長や官房長官など行政権力の側にいる人が、その作品を評価したうえで「 好ましくない」と判断し、撤去を求めたことにある。まさに検閲である。それどころか、
「 再開すると表現の自由が侵害される」との名古屋市長の発言まである。
 表現の自由は無制限ではないというのは、一見その通りなのだが、それは具体的な害悪がある場合に極めて限定的にしか、その内容を規制することができないものとされる。とくに、民主主義は、意見の多様性( その中には政府批判が当然に含まれる)の確保が何よりも重要である。
 従軍慰安婦の強制連行を否定したいという権力者が、それに対する批判をこめた「 少女像」を否定することに今回の展示中止の力点がある。税金を使って展示するのは問題だとの発言もあったが、税金を使って行うのは「 表現の自由」の確保であって、権力に都合の良いプロパガンダこそ税金を使って行うべきものではない。
 今回のような事態は、埼玉の九条俳句掲載拒否、金沢市役所前広場の使用不許可など、形は異なっているかもしれないが、すでに各地で進行している。文化庁は補助金の不支給を決めた。権力による介入を許さない声を大きくすることが必要である。
丹羽 徹(龍谷大学)


『人権と部落問題』 巻頭言集

2019年11月号(No.929)

  2019参議院選挙と「新たな課題」
 
 日本国憲法を大切にしたいと願う者にとって、2019年7月の参議院選挙は、これまで以上に重みをもつ選挙であった。2016年夏以来、改憲を宿願とする安倍政権のもと、衆議院・参議院ともに改憲勢力が3分の2を超え、「数の力」で改憲発議が可能な状況にあった。公文書の改ざん、文書の隠ぺいなど、権力の凄まじさを存分に発揮する政権だけに、何をしてくるか分からないなかでの3年間であった。だが、憲法を大切にしたいという運動は、改憲発議を阻み、今回の参議院選挙にて改憲勢力3分の2超えの状態を終わらせたのである。これは、大きな成果である。
 そのうえで、問題を3点指摘したい。第一は、安倍首相が選挙直後に「(国民投票の時期につき)期限ありきではないが、私の任期中に何とか実現したい」と語ったように、この政権は改憲を決してあきらめていないということである。多数派工作を含め、何をしてくるか分からない。日韓関係の悪化すら改憲世論への誘導に使いかねず、監視と批判の眼と声を絶やしてはならない。
 第二は、憲法九条のもとでも日本の軍事大国化が急激に進んでいることである。2018年末に閣議決定された防衛計画の大綱では、平素からの日本のプレゼンス、すなわち軍事的存在感が重要だとして、自衛隊による米軍の後方支援の必要性を強調している。ヘリコプター搭載型護衛艦「 いずも」の空母化は、その実施を裏付ける。「 動く航空基地」の保有など専守防衛では決してない。この事態を阻止するには、安保関連法を廃止するしかない。
 第三は、四八%という極めて低い投票率である。「 政治にあきらめてしまっている人がいる」「 安倍政権に代わる選択肢が明確でない」などといわれる。だが、私はこの背景には、1990年ごろから本格化した新自由主義化とデジタル化にともなう弊害があるとみている。市場原理を重視する新自由主義は、人々の関係をサービスの提供者と受け手の関係にシフトし、有権者までを消費者に固定化した。自己責任が強調され、政治に期待するものがない消費者は投票する動機を失うだろう。そもそも、情報の入手ツールがインターネットになった人は、自分の好みの情報ばかりを集め、政治など一般の関心ごとには無頓着になりやすい。この推論が正しければ、改めて新自由主義の問題を検討する必要があるのではないか。この国の民主主義を生き延びさせるために、である。
                       奥野恒久( 龍谷大学政策学部)


『人権と部落問題』 巻頭言集

2019年10月号(No.928)

  老後資産二〇〇〇万円問題が提起すること
 
 夫六五歳以上、妻六〇歳以上の無職世帯では、老後生活に必要な金額に対して、夫婦が受け取る年金二一万円では毎月平均五万円不足し、三〇年の人生があるとして、およそ二〇〇〇万円の金融資産が必要だ、とした金融庁金融審議会の「 市場ワーキンググループ報告書」が六月三日に発表された。ところが、諮問当事者の麻生太郎財務相兼金融担当大臣は、参議院選挙への影響をおそれて、「 受け取らない」との異例の表明をした。
 ここには二つの問題がある。一つは、基礎年金に厚生年金を付加した受給額では、一般労働者層の老後生活で支えられない事態になっている原因究明を政治課題にしたことである。もう一つの問題は、公的年金で老後の安心を保障する国家責任を不問にし、若いうちから、資産形成をする「 自助努力」を強制し、他方で金融や証券業界にその受け皿となる市場開拓を推奨していることである。
 この議論には、七万円前後の基礎年金のみで生活する高齢者層の存在や、厚生年金への加入が困難な非正規労働者層の老後にやってくる膨( ぼう) 大( だい)な低年金問題は視野の外に置かれている。年金保険料を負担する世代の少子化による人口減は、子育て世代への保育福祉施策の長年の軽視や高等教育費と住居費負担を自己責任としてきた政治の帰結でもある。諸外国に例のない二〇〇兆円にせまる年金積立金の五〇%も株式投資に運用できるようにして株価維持のために大幅投入し、その運用に失敗した政府の責任も問われなければならない。世代間対立を煽( あお)るような論議も責任の所在をあいまいにする。
 メディアの責任も正されなければならない。「 日経新聞」は、二〇〇〇万円問題が参議院選挙の焦点になり始めた七月一四日に、「 高齢世帯平均二〇〇万円」の「 金融資産」を有するという六段ブチ抜きの記事を掲載した。しかし、このデータからは一人暮らし高齢者が除外され、貧富の差の大きい高齢者を平均値で発表するという、与党を助ける情報操作がなされていたのである。
                    ( 石倉 康次)


『人権と部落問題』 巻頭言集

2019年9月号(No.927)

  国際基準を無視する「アイヌ新法」
 「 アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」( アイヌ新法)が、二〇一九年四月一九日に国会で可決 ・成立、四月二六日に公布、五月二四日に施行された。全八章四五条と附則一九条から構成されている。
 これまでの「 アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及および啓発に関する法律」( アイヌ文化振興法)は廃止され、アイヌに対する「 政府による基本方針」策定の基本法とされる。アイヌ政策基本法ならば、少なくとも明治以来の同化政策がアイヌ民族の生活を破壊し収奪してきたことへの反省 ・謝罪がなければならないが、それにはまったくふれることがない。
 また、草案発表以来、アイヌ諸団体や市民団体が要請していた生活支援や教育支援に応えるものにもなっていない。アイヌの生活保護率の高さや大学進学率の低さなどに示された深刻な生活問題は幾度となく指摘され、解決をせまられている政策課題であったはずである。この法律のいう「 アイヌ施策」とは「 アイヌ文化の振興等に資する環境の整備に関する施策」であり、現在建設中の国立アイヌ文化博物館を含む「 民族共生象徴空間施設」の管理、市町村のアイヌ施策計画への交付金、継承儀式に関わる国有林やさけ漁への部分的配慮、商品開発経費の軽減や免除などが規定されるにすぎない。「 アイヌ文化振興法の延長」である、という当然な批判( 二月二五日のアイヌ政策検討市民会議声明)もでている。
 さらに重要な問題は、アイヌ民族自身の主体的参加が確認されていないことである。市町村のアイヌ施策は市町村が作成、内閣総理大臣が認定する。土地権など先住民族固有の権利、自決権や自治権が保障されていない。これは先住民族固有の権利を保障する国際基準である「 先住民族の権利に関する国連宣言」( 二〇〇七年)を無視するものである。性急な立法過程からは、立法や行政措置にあたっては先住民族と「 誠実に協議し協力する」という「 国家の義務」( 国連宣言一九条)さえも怠っているように思われる。
 法律に初めてアイヌを「 先住民族」と明記した、と評価する意見がある( 二〇一九年四月二九日付「 北海道新聞」など)。しかし先住民族の確認は、二〇〇八年国会決議でなされていた。アイヌ諸団体の評価も別れている。アイヌへの差別禁止も規定されているが、社会的分断が持ち込まれないだろうか。私たちはこの「 アイヌ新法」の施行を監視していかなければならない。
    ( 尾川 昌法)


『人権と部落問題』 巻頭言集

2019年8月号(No.926)

  日本政府の第4・5回報告書に関する国連子どもの権利委員会「最終所見」

  子どもの権利条約を批准すると、締約国は「 この条約において認められる権利の実現のためにとった措置およびこれらの権利の享受についてもたらされた進歩に関する報告」を国連子どもの権利委員会に提出する義務が生じる。
 日本政府は、『 児童の権利に関する条約― 第3回日本政府報告』( 2008年4月)から9年2カ月経過した2017年6月に、やっと『 児童の権利に関する条約― 第4・ 5回報告』を提出した。これに対する審査が行われ( 2019年1月16日・ 17日)、3月5日に国連子どもの権利委員会「 最終所見」( 正式版)が公表された。「 最終所見」( 54項目)の特徴は、次の通りである。
 第1は、総括的な項で、「 本条約のすべての領域を包括し、政府諸機関の間の調整と相互補完性を確保する子どもの保護に関する包括的な施策」および「 この施策のための包括的な実施戦略を発展させること」を勧告したことである( パラ8)。
 第2は、「 あまりにも競争的な制度を含むストレスフルな学校環境から子どもを解放することを目的とする措置を強化すること」( パラ39b)だけでなく、「 生命、生存及び発達に関する権利」の項で、「 社会の競争的な性格により子ども時代と発達が害されることなく、子どもがその時代を享受することを確保するための措置を取ること」( パラ20a)を勧告したことである。「 社会の競争的性格」を問題にしたのははじめてである。
 なお日本政府は、子どもの権利委員会に対して「 競争主義的な学校環境」が子どもに多くの弊害をもたらしているという認識の「 客観的根拠について明らかにされたい」と迫っていたが( 『 第4・ 5回報告』パラ123)、審査の中で、「 否定的な影響を与えていない」というのなら、そのことを「 政府の方で説明していただきたい」と質問されたという。
 第3は、意見表明権( 12条)について、「 子どもが行使することを可能とする環境を提供すること」「 すべての子どもにとって意義があり、その力を伸ばし、発揮させるような参加を積極的に促進すること」を勧告したことである( パラ22)。締約国に意見表明権の行使を「 可能とする環境」の提供を義務づけたということである。
 ※「 最終所見」については、子どもの権利条約市民・NGOの会専門委員会訳を参照した。
                     ( 梅田 修)


『人権と部落問題』 巻頭言集

2019年7月号(No.925)

  元号の問題

 新しい元号が発表され、五月一日の新天皇即位とともに元号が変わった。
 四月一日、閣議決定の新元号が発表され、つづいて首相談話があった。マスコミは前日から改元キャンペーンを繰り広げる中で、「 読売新聞」は、この一日朝・夕刊から三日朝刊まで一面トップ記事とし、特に二日朝刊は全面記事八頁を含む一三頁で「 時代」と天皇賛美がきわだった。平成改元の前例を破って新元号を解説した首相談話は、はじめて国書を典拠にしたことを誇り、「 希望に満ち溢れた新しい時代」を切り拓くと言明した。 
 天皇の一代は一つの元号とする一世一元制は、一八六八年の明治改元と一緒に明記された後、一八八九年に帝国憲法公布と同時に制定された皇室典範にひきつがれ、「 一世の間に再び改めざること」、つまり天皇存命中は改元しないことが確認され、さらに日露戦争後の一九〇九年に登極令で細かく制度化された。天皇は元首であり、統治権を掌握し、元号の制定権も天皇のものであった。天皇は「 時代」の支配者であり、元号はその統治権のシンボルにほかならなかった。
 敗戦後、新憲法にそって改正された皇室典範は元号規定を削除し、元号は法的根拠を失っていたが、一九七九年の「 元号法」で「 政令で定める」「 皇位の継承があった場合に限り改める」ことになった。政令は、内閣が制定する命令である。元号の制定権を内閣が持つことになった。これが今回の元号発表の根拠である。
 この「 元号法」制定に反対する運動が全国的に展開された。多数発表された反対声明の中には、歴史研究諸団体のほか教育、宗教、文学や文化、法律、女性、労働組合、など実に一二六団体による共同声明(一九七八年一〇月三日)もあった。反対理由の主旨は、元号は憲法の主権在民原則に違反するものであり、国民に強制することは許されないということにある。この時部落問題研究者全国集会も反対を決議し、「 封建的身分遺制である部落差別がかつての天皇制の下で永く温存されてきたという事実にてらしても、この様な天皇の元首化につながる時代逆行の元号法制定化を許すことはできない」( 一九七八年一〇月二八日)と訴えた。
 元号の利便性を唱える声は、今日ではさすがに聞かれなくなっている。しかし、新元号を誇らしく発表した現内閣首班の自由民主党は、天皇を「 日本国の元首」にする改憲草案をかかげ、改憲策動を進めている。元号とともに象徴天皇が今もなお保持しているその社会的役割について、私たちは無関心であってはならないであろう。
                                 尾川 昌法


『人権と部落問題』 巻頭言集

2019年6月号(No.924)

  記者会見と報道の自由

 菅官房長官が、定例記者会見での東京新聞望月記者の質問にまっとうに答えることなく、さらに新聞社に対して圧力を加えるかのような文書を送りつけた。
 これら一連の出来事は、「 報道の自由」を侵害するものと言える重大な問題を含んでいる。それと同時に、マスコミの役割は、とくに権力との関係でどのようにあるべきかをあらためて考えるきっかけともなっている。「 報道の自由」はなぜ保障されなければならないか、その根拠はどこから導き出されるのだろうか。
 日本国憲法には「報道の自由」を明文で保障する規定は見当たらない。それにもかかわらず、「 報道の自由」は憲法上の権利であるといわれる。その根拠は一般的に表現の自由に求められる。表現の自由はすべての国民に保障される基本的人権の一つである。それが保障されるのは、人間は社会的な存在であり、自らの思いを何らかの形で自身以外に伝えたいという欲求があり、それが表現の自由の根拠となっている。それに加えて、民主主義社会においては、多様な意見の存在を前提に、自由な意見交換を通して結論を導き出す。つまり、民主社会の要請がある。このような表現の自由は現在において極めて重要な人権であり、優越的地位があるといわれたりする。
 民主主義の実現のためには権力に対する監視が必要であり、権力批判は表現の自由の重要な側面である。マスコミなどの報道機関の発達の中で、権力監視機能が求められ、報道機関は、立法・行政・司法と並ぶ第四の権力などと言われて久しい。だからこそ、「 報道の自由」は表現の自由の一形態として保障される。国民との関係では、知る権利に資するために「 報道の自由」は保障される。
 したがって報道機関は、権力と距離を置き、国民の知る権利のために十分応えなければならない。他方、権力側は、報道機関の質問が憲法に保障されている自由の行使であることを自覚し、萎縮効果をもたらすような今回の事態を謝罪し、二度と繰り返すことがあってはならない。
                        丹羽 徹(龍谷大学)


『人権と部落問題』 巻頭言集

2019年5月号(No.923)

  統計不正はリストラ問題か、
      それとも擬装なのか
 
 不正があったとされる「 毎月勤労統計」は、従業員5人以上の事業所で働く人一人あたりの平均賃金や労働時間などを調べるものである。ただし、従業員500人以上の事業所は、影響が大きいため、すべてが調査対象になる。
 しかし、東京都は2004年から3分の1を抽出して調査対象としていたのに、厚生労働省は、2016年に総務省には全数調査と偽って届けていた。しかも、抽出調査結果を補正する「 復元」処理が行われていなかった。そして、2019年調査においては神奈川県、愛知県、大阪府でも500人以上の事業所は抽出調査とする通知がなされていた。
 問題発覚後、総務省が各府省庁の五六の基幹統計を点検し、二二統計で三一件の「 不適切処理」が見つかったとし、「 国民生活に大きな影響はなく、予算案の修正の必要はない」と説明した。しかし、この調査結果は、雇用保険や労災保険の過少給付につながっていたし、安倍首相は「 今世紀最高水準の賃上げ」と称して消費税の一〇%への引き上げの根拠に使っていた。背景には、2004年から2018年の間に、国の統計職員の6、241人から1、940人へと大幅なリストラがあったことも問題になっている。
 もし、職員不足や政府統計処理問題の認識不足が要因ならば、責任の所在を明確にし、政府は総力をあげて調査データの復元を行うとともに、特別な予算をつけて、これによる損害の回復を早急におこなわなければならない。
 しかし、一連の「 不適切統計」とされていたものが、実は「 経済の好調」と「 賃金の上昇」を偽装し、一〇月からの消費税一〇%への引き上げ妥当との政策判断の根拠に利用するための「 偽装統計処理」の圧力、もしくは忖( そん)度( たく)があった疑惑が生じてきている。
社会福祉関係の研究者有志は、厚生労働省が生活保護基準引き上げの根拠を得るために、総務庁調査による消費物価指数を使わず、価格低下が著しいが、生活困窮者の使用が少ない電気製品の価格をふくめて算定した独自の物価指数をねつ造した前歴もあわせて告発している。
             石倉 康次



『人権と部落問題』 巻頭言集

2019年4月号(No.922)

   「 九条俳句」問題で何が問われたのか
      ==== 梅雨空に 「 九条守れ」の  女性デモ  ====
 
 この句は、さいたま市の女性が、二〇一4年六月に集団的自衛権の行使容認に反対するデモに参加した経験から生まれたものです。この句は所属するサークルの秀作に選ばれ、慣例では『 公民館だより』に掲載されるはずでした。しかし、公民館が「 世論を二分するテーマのため、掲載できない」と掲載を拒否し、それに対する提訴が事の発端でした。
 二〇一七年一〇月さいたま地裁、二〇一八年五月東京高裁、同年一二月最高裁における判決で、不掲載は違法との判断が確定しました。これを受けて、さいたま市教育委員会は「 掲載する」意向を表明しました。この一連の判決において問われたのは、公教育施設における学習の自由と表現の自由の尊重、ならびに掲載拒否の理由となった公民館の公平性・ 中立性の解釈でした。
 とりわけ、この時期、集団的自衛権、安保関連法制の問題をめぐって紛糾しており、憲法、原子力発電、沖縄基地問題など議論の分かれるテーマを取り上げた講演会や展示会などについて、「 政治的中立を保つ」という名目で、地方自治体による公共施設の貸し出し拒否や後援拒否などが相次いでいました。
 こうした事案において、施設利用者の立場と自治体の立場が第三者に誤解されることにより「 行政への支障が生じる」といった主張がなされることが多いですが、この背景にあるのは、政治的・ 社会的に懸案となっているものに関わることは「 避けておきたい、突っ込まれたらやっかいだ」という判断でしょう。
 こうした動向に対して、「 九条俳句」をめぐる公民館と教育委員会側の対応に抗して提訴した意義は大きいものがあります。とりわけ、住民の社会教育活動における学習の成果である表現行為を行政や公民館の立場から一面的に判断し、不公正に扱うことを禁じた点がそれに当たります。職員などの主体的な学習や研修などにより、学習権保障を踏まえた教育施設の役割や運営についての基礎知識や意識を高め、専門的力量の向上につなげていくことも合わせて求められているといえます。
         生田周二( 奈良教育大学)



『人権と部落問題』 巻頭言集

2019年3月号(No.921)

   高等学校にも道徳教育
 
 教科としての「 道徳」が、二〇一八年度から小学校で始まり、二〇一九年四月から中学校で始まる。高校でも、二〇二二年度から「 公共」の名で実施される。
 二〇一八年三月に告示された「 高等学校学習指導要領」は、公民科三科目のうち現行の選択必修である「 現代社会」を廃止して「 公共」を新設し、必修科目とした。指導要領は、総則に「 道徳教育に関する配慮事項」を特記するなど、高校における道徳教育推進に執着を示している。各校で「 道徳教育の全体計画を作成」し、「 道徳教育推進教師」を中心に全教師が展開すること、その「 中核的指導の場面」「 中核的機能」を担うのが新設の「 公共」であるとしている。
 「 公共的な空間に生き国民主権を担う公民として、自国を愛し、その平和と繁栄を図ること」が育成すべき資質・ 能力として強調され、「 憲法の下、適正な手続きに則り、法や規範に基づいて各人の意見や利害を公平・ 公正に調整し、個人や社会の紛争を調停、解決することなどを通して、権利や自由が保障、実現され、社会の秩序が形成、維持されていくことについて理解すること」が、「 身につける」べき知識 ・ 技能とされている。社会を「 公共的な空間」と一面化しておいて、法律や適正な手続きによって現実の社会問題を解決することで社会秩序が守られる、という教育である。 
 現行の「 現代社会」は、「 基本的人権の保障と法の支配、国民主権と議会制民主主義、平和主義と我国の安全について理解を深めさせ、日本国憲法の基本的原則について」認識する課題が明記されているが、「 公共」では、「 公共的な空間」がくり返されるばかりで、憲法の体系的学習が削除されている。そして、教えるべき内容として、「 固有の領土である竹島や北方領土」問題、「 尖閣諸島」に領有権問題はないことなどを指定している。つまりは、現在の社会秩序を維持し、国家に貢献する国民道徳を育てることをめざす教科であると言わねばならない。
 二〇二二年に「 公共」は実施される。一八歳となって選挙権を持つ多くの高校生たちから、基本的人権を体系的に学ぶ教科を奪うことになる。        尾川昌法
                                  


『人権と部落問題』 巻頭言集

2019年2月号(No.920)

   「 ヒバクシャ国際署名」を国連に提出
 
 二〇一八年一〇月一〇日、「 ヒバクシャ国際署名」八三〇万四〇三筆( 目録)を国連総会第一委員会( 軍縮 ・安全保障)イオン ・ジンガ議長に提出してきました。
 ジンガ議長は、「 こんなに多くの署名を集め、国連にとどけられたことに感謝申し上げます。…国連総会は一九四六年に核兵器の使用を非難する第一号決議を採択し平和を追求してきました。…被爆者の皆さんが、気高く、二度と同じような悲劇が引き起こされないように自分のとても悲しい経験を証言するという選択をしてくださっていることに深く感銘を受けております」と述べました。
 「 ヒバクシャ国際署名」は、二〇一六年四月に始められた「 被爆者は核兵器廃絶をこころから求めます」という署名です。二〇二〇年まで毎年国連に提出します。世界で数億、国内で国民の過半数を目標にしています。被爆者は、誰も「 原爆地獄」を体験しない、被爆者にならないよう、核兵器のない世界の実現を切望しています。数億の署名が国際政治を動かし、核兵器をなくし、命輝く青い地球を残すことができると確信し、すべての人に署名を訴えています。
一九五六年結成の日本原水爆被害者団体協議会( 日本被団協)は、当初から原爆被害の実相を伝え、核兵器の廃絶を訴える国際的活動と原爆被害への国家補償を求める運動を続けてきました。署名運動開始から一年、二〇一七年七月七日に「 核兵器禁止条約」が国連で採択されました。「 核兵器の終りの始まり」の瞬間です。
核兵器保有国( 米露英仏中)は第七三回国連総会第一委員会で共同声明を発表し、「 核兵器禁止条約」に支持も署名も批准もしないと激しく抵抗しました。それでも二〇一八年の総会は、「 核兵器禁止条約」の早期発効を求める決議を一二六カ国の多数で採択しました。核兵器の廃絶は世界の大勢になっています。
日本政府は、米国の同盟国として条約に反対し、署名も批准もしない態度をとっています。唯一の戦争被爆国の態度ではありません。国民の過半数の「 ヒバクシャ国際署名」を集め、核兵器をなくし戦争をしない日本をつくりましょう。
                       ( 木戸 季市/ 日本被団協事務局長)
『人権と部落問題』 巻頭言集

2019年1月号(No.919)

   「人権」の危機
 
 安倍内閣は、四項目にしぼって「 改憲」を強行しようとしている。  「 九条改正」のほかに、「 緊急事態条項」「 教育無償化」「 参院選の合区解消」である。特に人権認識に関わる「 緊急事態条項」に注目したい。二〇一二年の自民党「 改正草案」では、第9章として新設されていたこの条項を、「 内閣の事務」を規定した第七三条に追加する簡略化がなされているが、その危険な本質は変わっていない。「 大地震その他の異常かつ大規模な災害により、国会による法律の制定を待ついとまがないと認める特別の事情があるときは、内閣は、法律で定めるところにより、国民の生命、身体及び財産を保護するため、政令を制定することができる」とするものである。  「 改正草案」の解説では、「 政令」によって「 国民の生命、身体及び財産という大きな人権を守るために、そのため必要な範囲でより小さな人権がやむなく制限されることもあり得る」( 二〇一二年版、二〇一三年増補版)、としている。人権に大小はない。  さらに「 改正草案」は、人権について、「 現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要がある」と書いている。人権の普遍性は今日の世界において共通した認識である。かつて日中全面戦争に突入した一九三七年、全国の学校・官庁に文部省が配布した『 国体の本義』は、明治憲法の「 臣民権利義務の規定」について、「 西洋諸国に於ける自由権の制度が、主権者に対して人民の天賦の権利を擁護せんとするのとは異なり、天皇の恵撫滋養の御精神と、国民に隔てなき翼賛の機会を均しうせしめ給はんとの大御心より出づるのである」と天皇親政の国体を説明していた。「 西欧の天賦人権説」を拒否する発想は変わらないことに驚く。  人間としての尊厳を認め、それを人権として尊重するという政治原理は人類が到達した叡智であり、世界が認める普遍的価値である。歴史の潮流に逆行する「 改憲」の人権認識を許すわけにはいかない。        尾川 昌法