コ  ラ  ム

2017年1月16日「油断やスキ なかっただろうか ―「部落差別解消推進法」問題に寄せて
2016年12月16日「部落差別解消推進法」成立にあたって(声明)
2016年12月9日「『部落差別』固定化法案」の参議院法務委員会での採決強行に断固抗議する(外部リンク)
2016年12月9日「部落差別解消推進法」制定策動と 『部落問題解決過程の研究』(「人権と部落問題」2017月年1月号巻頭言)より
2016年12月8日部落差別解消推進法案に思うこと(「人権と部落問題」2016年7月号巻頭言より)
2016年5月29日部落問題研究所定時総会にて「部落差別の解消の推進に関する法律案」制定に反対する決議
2016年6月1日「アイヌ民族差別——政府 の意識調査発表」|2016年6月1日「沖縄核密約に新資料」
2016年3月21日 「山田奉子さんのお心遣い」     |2016年6月1日「ハンセン病特別法廷問題最高裁報告書について」
2016年2月23日 「追悼 金子欣哉さんありがとう」 | 2016年2月1日「新任理事の見た公益社団法人部落問題研究所」
2016年2月1日「北海道は、開拓者の大地」なのか | 2016年2月1日【追悼】金子欣哉先生
 


(『会報』2017年2月1日№239より)
油断やスキ なかっただろうか
    ―「部落差別解消推進法」問題に寄せて

 「部落差別解消推進法」問題を、少し視点を変えて俯瞰してみたい。
 まず、議員立法をめぐって。議員立法の特徴は、縦割り行政ではまとめにくい省庁間にまたがる課題に比較的迅速に対応できる点。例えば、がん対策基本法、いじめ防止対策推進法等は超党派の議員立法で生まれた。
しかし、与党の巨大化等によって状況に変化が生じている。膨張した与党にあって、各議理事会員は多数の中に埋没しかねないだけに、居場所と出番探しに汲々とし、3つの特措法の到達点等を深く学ぼうとしない。すり寄る野党議員も出てくる。政府や党幹部は
こうした政治状況を巧みに使おうとする。旧3法を終結させた政府が、「立法事実」に欠ける法律を自ら再度提案するとしたら、あまりに筋が通らないだけに、議員提案に応える形で取り込みを図ったのではないか。今後、関連法や条例等が作られることにでもなれば、そこに利権や支配構造が再構築されることはない、と言い切れるだろうか。彼らは「何でもあり」だ。
 そして私が一番気がかりなのは、次々出てくる悪法の成立を許す社会的な背景、市民の「反応の鈍さ」「無関心」の広がりとマスコミや行政の「歴史に学ばない姿勢」だ。都内で働く私は、新聞や雑誌、行政の広報誌に読者を惑わす一面的な見方の人権に関する記事を見るたびに、発行元を訪ねて意見を述べ、抗議してきた。
例えば、都教委や区教委が毎年出す「人権啓発冊子」。「同和問題」に多くのページを割き、結婚・就職問題など「根深い差別」を必ず取り上げている。しかし、それがいつ起き、具体的にどんな出来事だったのか、問題事例の増減など、人権問題として客観的、科学的に考えるための事実やデータの提示は全くない。そこで私は都庁を訪ね、疑問点を尋ね、読む人の役に立つ内容にしてほしいと求めているのだが、答えはいつも「上司に伝えます」。反発に終始する担当者がいる半面、話の後、エレベーターに乗るまで送って来て、「ご指摘のとおりですが、しがらみが…。おかしいと具体的に言ってくれる人も滅多にいませんし…」と漏らす担当者も。
 今回の推進法に関して、私は問題点に切り込んだ新聞記事を一つも見なかったし、テレビは、どの局も触れていなかったと思う。その一方で、これも同線上で語れる番組が年末のNHKラジオであった。「震災避難者へのいじめ――本当の問題点」のテーマで大学教授が語っていたのだが、この人は、原発の人災の側面を指摘しながら、もっぱらいじめの背景に「穢れ意識」と「清め」という考えがあると強調した。いじめを明確に人権問題と捉え、これまでの経験知と教育・心理・社会学など科学的な知識・情報を駆使して取り組まずに、どうやって解決しようというのだろう。そんな展望のない話に納得できず、私はやっぱりNHKに物申した。
 米国の大統領予備選挙で奮闘したB・サンダースは "We don't have the luxury to give up, OK?"(「私たちに諦めるなどという贅沢は許されないのです。いいですね。」)と言っている。現状を想うにつけ、油断やスキをつくらないよう、お互いに心に刻んでおきたい言葉だ。
         (福士 善彦・会員・編集者)
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沖縄核密約に新資料
 一九六九年の沖縄返還合意に際し当時の佐藤栄作首相とニクソン大統領がかわした沖縄核密約について、日本政府は依然としてその存在を否定し、最高裁も文書開示請求に対して「存在しない以上開示は不可能」として拒否してきた。ところがその存在を明記した米国の公式文書が新たに公表された。歴代国防長官の任期別に記した「国防長官シリーズ・第七巻」として米国防省が昨年公刊したものである。密約の存在はすでに裁判でも確認されていたので、米行政府による改めての確認文書である。「米国は核兵器を撤去するが、危機の際にはそれらを再持ち込みする権利を維持した」、と記している(春名幹男「新資料・沖縄核密約」、『世界』六月号)。
 安倍政権が強行する特定秘密保護法と戦争法、辺野古新基地建設を拒否し、反核平和擁護運動を進める市民の運動はさらに深刻で重要な意義を持つであろう。
(『人権と部落問題』五月号特集「沖縄と憲法」に西山太吉「取材・報道の自由と特定秘密保護法」が掲載されている。)
         (尾川)
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アイヌ民族差別——政府 の意識調査発表
 二月二六日、政府はアイヌ民族への理解度について「国民全体を対象とした調査」(二〇一六年一月実施、回収一七二七人)と「アイヌの人々を対象とした調査」(二〇一五年一〇~一一月実施、回収七〇五人)を発表した。アイヌ民族を対象にした全国調査は初めてである。全国紙はごく簡単に報じたが(例えば「朝日」1段11行)、北海道新聞は3段と5段抜きで二日間連続の記事をのせ高い関心を示した。
 「アイヌの人々を対象とした調査」全八項目の中から注目されるいくつかを紹介する。アイヌに対し現在、差別や偏見があると思うか〈ある七二・一%、ない一九・一%〉 なぜ「あると思う」か〈漠然としたイメージ五四・七%、家族・親族・友人・知人が受けている五一・四%、自分が受けている三六・六%〉
 「自分が受けている」差別とはどのような差別か〈自分がアイヌであることを知らない周囲の人がアイヌに対する差別的な発言をしているのを聞いた六二・九%、結婚や交際のことで相手の親族にアイヌであることを理由に反対された五七・五%〉
 アイヌに対する「差別の原因・背景」は何か〈アイヌの歴史に関する理解の不十分さ七八・〇%、行政や学校教育においてアイヌの理解を深める取組が不十分六八・五%、アイヌ文化に対する理解の不十分さ六六・一%〉
 注目されるのは、「差別・偏見がある」と約七二%のアイヌ当事者は答えたのに対し、「国民全体」は約一八%で大きなずれがあることである。「国民全体」調査で「あなたはアイヌの人々や文化に接したこと」が「ない」は約七四%である。今日の生活実態を含むアイヌ民族の歴史や文化についての学校教育が必須である。この調査について、アイヌ協会副理事長阿部一司氏は「聞き取った人数が少ない上、回答した人の居住地別の分析も行われていない。真剣に行われた調査と思えず、結果をふまえて国が何をしようとしているのか分からない」(北海道新聞、2・27)と語っている。(『人権と部落問題』2月号―アイヌ問題特集をご参照ください。なお9月増刊号に調査の全文を掲載します。)         (尾川)
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ハンセン病特別法廷問題最高裁報告書について
 最高裁判所は、四月二五日、ハンセン病患者(回復者)の裁判が療養所など隔離された場所で開かれた特別法廷(隔離法廷)で行われていた問題(一九四八~七二年に九五件)で調査報告書を公表、事務総長が記者会見をした。四月二六日付各紙によれば、ハンセン病だという理由により特別法廷設置を認めたのは裁判所法違反だと認めた(第69条 法廷は、裁判所又は支部でこれを開く。②最高裁判所は、必要と認めるときは、前項の規定にかかわらず、他の場所で法廷を開き、又はその指定する他の場所で下級裁判所に法廷を開かせることができる)。しかし、裁判の公開原則(憲法第82条 裁判の対審及び判決は、公会法廷でこれを行ふ)については、療養所の正門に開廷を知らせる「告示」をしていたことなどをあげて、傍聴は不可能ではなかった、としたという。
 特別法廷の問題は、菊池事件(かつては藤本事件といっていたハンセン病者とされた藤本松夫氏のえん罪事件。一九六二年九月一四日死刑執行)の再審を求める全国ハンセン病療養所入所者協議会などの要請を受けて最高裁が「ハンセン病を理由とする開廷場所指定に関する調査委員会」を二〇一四年四月に設置したことによる(徳田靖之「ハンセン病『特別法廷』と最高裁判所の責任」『人権と部落問題』2016年4月号参照)。
 山陽新聞(本社・岡山市、県内には瀬戸内市に長島愛生園、邑久光明園の二つの療養所がある)四月二六日付によると、愛生園で一九五八年頃暴力事件で起訴された男性(75)は、園内の礼拝堂で裁判をうけ、罰金二万円の判決を受けた。払えないので労役を申し出たがうやむやになったという。光明園でも五四年、傷害事件の裁判が園内で行われたという。
 これが事実だとすれば、療養所の門に「告示」をしたとしても、公開と言い難いことは明らかである。両園の立地する長島は瀬戸内海の島であり、一九八八年に橋がかかるまでは渡船を利用しなければならなかった。
 司法による誤りは司法の手によって改める(再審)しかないのである。
(奥山峰夫/研究所理事)
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山田奉子さんのお心遣い
 3月21日に開催された臨時総会にご出席の山田奉子(奈良)さんが、
 手造りのお菓子を手土産にくださいました。
 " つくしんぼう(土筆)の砂糖漬け " です。 甘くて、かみしめるとなつかしいほろ苦さ・・・・
    山田さん、春の味をありがとうございます。つくしんぼう
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(『人権と部落問題』2016年3月号より)
 追悼 金子欣哉さんありがとう               東上高志

 うかつな話だが、 戦後同和教育実践の「原型」を創造したといってもいい金子さんが、昨年九月二九日に九八歳で亡くなっていたという。私に同和教育を教えてくれた「恩師」でもある。なぜ「原型」というか。実は一九五三年に発足した全同教の実質的な推進者は金子であり、まだその姿も描ききれぬ(戦争に奉仕した融和・同和教育と決別し、憲法・教育基本法にもとづく)同和教育の理念と具体的な実践を自らの取り組みを通してリードしたのが金子だった。 それを教師のものにするために金子は「みんなのために、みんなでとりくむ、同和教育」「足もとの問題を、ほりおこす、同和教育」のモットーを作り、普及させた。五三年に研究所に入った私は、 富有(ふゆう)小学校の金子の教室に通った。富有の四年間と京都市一番の困難校といわれた、皆山(かいざん)中学校の四年間の八年間が、金子の同和教育をつくりあげた。それは『わたくしの同和教育』(一九五五年/潮文社)として実つてぃる。

 戦中に京都師範学校を卒業した金子は、戦後京都大学文学部国史科に入学。 最終学年の三回生のとき、私立平安女学校(現、平安女学院中・高等学校)に就職して、家計を助けながら卒業した。その年文部省の科学研究費を得て、部落史の究明を考えていた金子を木村常務理事がたずねて、協力を要請したところから、部落問題研究所のメンバーに加わった。研究所の初公刊といつていい 『新しい部落の歴史』をリライトしたり、最初の調査である小林部落調査のメンバーでもある。

 京大を卒業した金子は、初心を貫いて小学校に勤め、翌五一年市教組の文化部長に就任。「補習学級事件」に直面する。 「劣等生を救済するために」の文言を糾弾する朝田善之助は首切りを主張。それを阻止し、本格的な同和教育を実践する。
京都府教委の同和教育指導主事、社会教育課長)この時『ろばた懇談会』というユニークな実践を提唱)、蜷川民主府政の教育長を務めて京都の民主教育を支え、発展させた。研究所では長年にわたって監事を勤めてぃただぃた。
金子の実践の真価は、子ども自身に(家庭や学校の)暮らしのなかにある矛盾をとらえさせる生活つづり方教育にあった。それを通して人格を形成することにあった。

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(『会報』2016年2月1日№233より)
 新任理事の見た公益社団法人部落問題研究所               竹永三男
 鈴木良さんのご逝去の跡を承けて、昨年、理事の一人に就任しました。成澤理事長から依頼された時は躊躇しましたが、研究委員会の場で議論している課題に取り組むことを理事としての職掌の中心にすればよいと思い直して理事就任を承諾しました。また、一九六九年秋に学生部落研に加入して以来、今日に至るまで私が歴史学(日本近現代史)の研究を続けることができたのは、「部落問題研究所に育ててもらった」からこそという実感も理事就任承諾の理由でした。
 とはいえ、理事の職責は、個人の感慨だけでは全うできません。成澤理事長を先頭に所員全員の力を結集して公益社団法人の認定を受けたことは、在野の小規模な学術研究機関としては画期的なことでした(同じく認定された学会の会員数は、日本心理学会が七、四〇〇人、土木学会は四〇、二四二人です)。しかも、認定のハードルの高さは、そのまま公益社団法人資格を維持するための課題の重さ、大きさになって研究所にのしかかっていることを、理事会での議論で実感しました。その最大の課題が財政問題であることは言を俟たず、これに即効性のある特効薬はないという事実が、課題をより重くしています。
 そうであれば、困難を打開する解決策は、原点に立ち返って、地道な取り組みを進める以外にありません。それは、①創立以来の部落問題研究所としての蓄積を、②公益社団法人という法人格に即して活用・継承・発展させるということだ、と私は考えています。この中、ここでは②について、差し当たり考えていることを述べます。
 「公益社団法人」の定義と要件等については、成澤理事長から繰り返し報告されてきましたが、「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」の規定によれば、要するに、「学術を通して、差別・偏見の防止・根絶をめざし、不特定多数の利益の増進に寄与する事業を推進する」ということでしょう。つまり、部落問題研究所が学術研究機関という設立以来の目的を確実に果たすことが公益社団法人の基礎であり、そのために「必要な経理的基礎及び技術的能力」を持てということです。
 これを私の理事としての職掌に照らせば、①会員個々人の研究・活動とその成果を『部落問題研究』『人権と部落問題』に反映してもらうこと、②各研究部門での共同研究を部落問題研究者全国集会・各部門研究会と学術出版に集約すること、③それらの財政的基盤として科研費の交付を受けるよう努めることです。この中、科研費は手段であって目的ではありませんが、直接研究費の三〇%が間接経費として機関=部落問題研究所の運営に資するものとなること、科研費の申請が共同研究を組織する契機となり、その採択・交付が共同研究を推進する財政的基盤になることから、特段に重視する必要があると考えています。
 現在、部落問題研究所では、歴史部門三件(内個人研究一件)、教育部門一件の科研費の交付を受けていますが、部落問題研究所のような小規模の学会・学術研究機関では極めて多いと思います。それは、研究所の研究実績に対する評価とともに、部落問題とこれに関わる学術研究活動を推進し、広く社会に普及する課題が部落問題研究所に課せられ、期待されていることの現れだ思います。これに応えるために、現在の「広川科研」「藤本科研」を確実に遂行することによって、理事としての職責を果たすことを年頭に決意しています。
 (たけなが みつお/島根大学名誉教授・部落問題研究所理事)
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 (『会報』2016年2月1日№233より)
「北海道は、開拓者の大地」 なのか                     奧山峰夫
〈事実〉
 北海道の新千歳空港に北海道日本ハムファイターズ球団(以下、日本ハム)が空港の出発ロビーに、栗山英樹監督の写真とともに「北海道は、開拓者の大地だ」という文言を書いた広告を提示していた(縦5・5㍍、横2㍍、2015年6月から掲出)。
 これにアイヌ協会の関係者が気づいて、協会が日ハムに電話で連絡、球団は一一月九日撤去するとしたという(朝日新聞デジタル 11月9日)。
 〈民族・人種問題について の無知〉
 アイヌ協会の阿部一司副会長は「歴史や国際的な動きをもっと勉強してほしい。人権への配慮がなく、まだわかってもらえないのかと情けなくなった」と語ったと言う(前出、朝日新聞)。
近年では二〇〇七年四月、国連総会において「先住民の権利宣言」が採択され、日本では二〇〇八年六月六日、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が衆・参両院本会議で可決されている。さらにいえば、中学・高校の歴史教科書を見れば、近代以前、蝦夷地(北海道)は先住民としてにアイヌ民族が住んでおり、和人との交易が行われていたことなどがわかる。
 日ハムは二〇〇四年、閑古鳥の鳴く東京ドームから札幌へ本拠地を移す際には、「地域密着」を掲げたはずである。「北海道は開拓者の大地だ」ということは、これらの事実を一切無視するとともに、初心を忘れ去ったものとしか言いようがない。
 〈サッカー界との違い〉
 ここで想起するのは、サッカー界における問題である。二〇一三年七月八日、埼玉スタジアムに浦和レッズのサポーターによって「JAPANESE ONLY」という横断幕が揚げられた件である。
 これに対し浦和レッズは、この横断幕を掲げたサポーターを出入り差し止めとし、Jリーグは浦和に対しペナルティとして無観客試合を科した。またヨーロッパのサッカー界では、しばしば人種的・民族的な侮辱行為が発生しているという〈多くは黒人系選手に対して〉。これに対し、同僚選手が抗議の意思を表示することが見られる(和泉民郎「サッカーと差別〈Japanese Only〉問題を考える」『季論21』2014年夏、第25号、「ぼくらは差別が見えていない―浦和レッズの無観客試合から考える」『週刊金曜日』2014年5月9日、990号)。
 ヨーロッパのことはともかく、このちがいはどこからくるのか。思いつくままに述べると、いささか飛躍するかもしれないが、日本のプロ野球界には大変旧い体質があるということだろう。かつて二〇〇四年の球団再編に関わって労働組合プロ野球選手会が球団経営者側と話し合いを求めた際、渡辺恒雄読売巨人オーナーは「たかが選手が・・・」と言ったと伝えられる(古田敦也会長・日本プロ野球選手会編『決意! 合併・1リーグ制No!宣言』双葉社、2004年)。日本プロ野球選手会は、東京地方労働委員会が労働組合として認定している(1985年11月)。正当な理由なく交渉を拒否することは不当労働行為である〈労働組合法第7条〉。このことを知らないのか。
 さらに、プロ野球コミッショナーに、競技とは無縁の元駐米大使、最高検検事などをすえることもそうした体質のあらわれではないか。
 〈おわりに〉
 筆者は、かつて七〇年代末から八〇年代にかけて今はなき大阪球場などでプロ野球を観戦したことがある。阪急対近鉄の試合で、阪急の主力選手に対し、「ラーメン屋」とか「アホー」などといったヤジがとんだ。もっとセンスの良いヤジはないのかと思ったものだ。一九七六年の広島での張本勲選手(当時読売巨人)の「暴力事件」と伝えられるものも、民族侮辱的なヤジがあったという。最近ではそういう問題は克服されたのだろうか。最近は、東京へ行った時、6大学野球をやっていれば見に行く程度で、球場には足を運んでいない。別当(薫)、藤村(富美男)の頃からのプロ野球ファンとしては、日本プロ野球界の革新、発展を願うものである。
(おくやまみねお /部落問題研究所理事)
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 (『会報』2016年2月1日№233より)
【追悼】金子欣哉先生  ご逝去の報にふれて
 金子先生と「教師のための学校 金子教室」の想い出  
           O・K
 当時、大阪で行われていた「教師のための学校 青木学校(青木一先生)」にならって、京都でも作ってはと藤原義隆先生の発案で、一九八九年七月に、はじめての金子学校の設立準備委員会が部落問題研究所で行われました。講座には、若い層に魅力のある講座は何か、教師が学びたいという要求は何かなどと共に、教師の力量を高め、教材化できる内容であることも求められました。そして一九九〇年五月から毎年春と秋に年二回開催され、九四年の春に終わるまで五年間にわたり、総講師陣四七名、総数三〇〇名を超える受講者で行われました。 金子先生は、特に若い先生方に、教育の本当の楽しさを知ってほしいという願いと、子どもが精一杯、心や身体を働かせて伸びていくような活動を、教師が子どもと一緒に実感してほしいという願いを常にもっておられました。教師の仕事は「授業に始まって、授業に終わる」。そして、また授業には子どもを引きつける創造性が必要であり、教師の自信と元気さは、くじけず取り組み続けるところに生まれると言われました。この講座は、まず授業のなかで、ひとりひとりが生き生きと自由に活動できる場を用意することで、その願いが開かれるという確信を与えられ、そしてこの講座が教育に生き甲斐を感じる教師たちの期待に応えられたと思います。
 金子先生のこの言葉を噛みしめながら、先生のお好きだったカラオケに幾度かお付き合いさせていただいた時の、先生の柔やかな笑顔を想い出しています。     (部落問題研究所)
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